虎次郎という偉人

こんにちは、先日、テレビを見ていたら、虎次郎という偉人を発見。
うちの子は寅次郎というあだ名をつけていますので、ちょっと気になり調べて見ました。

1. 本因坊秀策伝

 本因坊秀策は桑原輪三と母カメの次男として、文政12年(1829年)に尾道市因島外浦町に生まれました。
 幼名を虎次郎といい、3、4歳の時、碁石をやればすぐに泣き止み、黒白を並べて遊んだといわれます。母に囲碁を教えられたのが5歳で、6歳のときには近郷に敵が無く、7歳のとき三原城主浅野公と対局してその棋力を認められ、竹原の宝泉寺住職葆真和尚に師事しました。その技の巧妙さに人々は驚き神童といいました。
 9歳の冬に浅野公のすすめにより江戸へ行き、本因坊家に入り本因坊丈和の弟子になりました。11歳で初段の免許を得て翌年帰国、浅野公より5人扶持を賜り、15歳で4段の免許を得、名を秀策と改めました。17歳のときには12人扶持に増禄され、18歳の時大阪で幻庵因硯と対局し、世に言う「耳赤の妙手」で有名です。
 20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘花と結婚しました。
 21歳で御城碁に初出仕しましたが、この時から13年間御城碁において19連勝で負けることがありませんでした。
 しかし、34歳という若さで他界してしまいました。
 
 一方、秀策は碁に秀でていただけでなく、晩年、当時の書家竹雪道人について書を学び、師の筆跡と判別できないほど上手だったといわれます。書の多くは世に伝えられていないものの、石谷広策に与えた囲碁十訣や碁盤に記した「慎始克終、視明無惑」また、父母に送った手紙等が残っています。
 秀策の布石は秀策流といい、今日の対局にも見ることがあります。また、秀策の棋譜を並べると段が上がると言われるほどで、高段者は一度は並べたことがあるそうです。
 
 秀策はその棋力と人格により「碁聖」と呼ばれていますが、これまでの多くの棋士の中で「碁聖」と崇められるのは、第4世本因坊の「道策」と「秀策」の2人だけで、その偉大さがわかります。
 秀策の遺品は尾道市因島外浦町の生家跡の秀策記念館に多く保管されており、囲碁愛好家が親しみをもって訪れています。

本因坊秀策

逸 話

◎秀策が母の胎内にいるとき母が大病を患いました。母はあるいは死亡するかも知れないと思い適意の娯楽をして心の慰安を求めて余生を送ろうとし、もっぱら囲碁を楽しみとしました。期満ちて分娩した児が碁を好むのもいわゆる胎教に由るものといわれます。
 また、3、4歳の時、泣き止まないときに菓子などをやっても泣きやまず、碁石をやればすぐ泣きやめ黒白を並べて遊んだといわれます。
 ある時父輪三が怒って彼を押入の内に幽閉しました。しばらくして泣き声がやみ、すすり泣き声もしなくなったので母が心配し、そっと見ると押入の内にある碁石を出し、これを盤上に並べるのです。母がその好みを察し囲碁を教えたのが5歳の暮れでした。
 囲碁を理解すると手段巧妙人の意表に出ずるものがあったといわれます。

◎秀策が病気にかかり寝室にいました。別室では門人等研究につとめていましたが、たまたま秀策は廁に行こうとしてそのそばを通り甲乙対戦の状況を一見しました。終局になり評論百出してついにジゴときめました。
 秀策は布団の中から白が一碁子の勝であるといいました。門人等研究してもそれがわからないので指導を乞いその鑑識の的確なるに驚きました。

◎秀策はその年兄と共に江戸に上りました。東海道の各駅を経てある宿に泊まり払暁出発することを告げました。宿の人がその時期の来たことを告げたので急いで朝食を食べ宿を立ちました。しばらくして月が東の領に上り夜はいよいよ深まりました。宿の人が東天の白さを見て曙光と間違えたのです。二人は話しつつ歩き、漸くして鈴鹿の森に来ればうっそうとした森の中に犬がほえて人声が聞こえます。
兄は「鈴鹿の森は刑場で昔から強盗の巣くつだ。早く逃れて難を避けよう」といいました。
 秀策は泰然として「今逃げると彼らは必ず追ってくる。機先を制して彼らの胆を奪おう」といいました。近付くと蓬頭に垢だらけの徒が群をなして豪語し、寧猛な顔は鬼のようです。
 秀策は泰然自若として焚き火に近づきおもむろにキセルを出して一服し袖をさぐり金を少し与え「下向の時ではないので財布の中も思うようにならない。許せよ」と悠然と去って顧みもしません。賊は呆然として追ってこなかったそうです。
 機先を制するのは碁客の秘訣、行はこれを応用したものでしょう。

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